オカルトについて冷静に考えてみよう。

世に不思議無し、世凡て不思議なり

見える人・その①

世の中には「見える人」がいる。

僕自身は見えない人なんだけど、世の中には「見える人」がいる。

このブログで言うところの「見える」なので、当然幽霊の話だ。

「霊感」がある人は見えるし、霊感がない人は見えない。

霊感には強弱もあって、「たくさん、はっきり」見える人もいれば、「なんとかく分かる」というくらいの人もいる。

まあ、「霊感」と言われると途端に胡散臭さが立ち昇ってくるわけですが、これを「音感」とか「視力」と同じだ、と言われればぐっと受け入れやすくなる。

同じく耳が聞こえると言っても、人によって耳の良し悪しはあるし、中には特別耳の良い人もいて、ほとんどの人にはとても聞こえないような周波数の音でも聞き分けられる人も存在している。霊感というのもどうもそういうものらしい。

 

「見える」人は、なんでもかんでも見える

しかし、どうにも分からない事がある。

基本的に、幽霊が見える人はUFOも見えるし、果てはUMAすら見える。

見えない人には、そのいずれも見えないのである。

 

幽霊は霊感がなければ見えない。それはわかりやすい。

だが、UFOって霊魂とかじゃないじゃん? 外宇宙から来た人でしょ?

UMAに至っては、未確認であれ動物のカテゴリーでしょ?

どうして、それらはほとんどの場合において、霊感のあるなしで等しく見える見えないが決まってしまうのだ。

 

俳優やミュージシャンといった芸術関係の人というのは、比較的「見える人」が多い。女優さんのインタビューなどで、時折「自分は霊が見える」と言っている人がいるが、そこにはけっこうな確率で「UFOを見たことがある」というのが重なっている。

 

そして超能力者と呼ばれる人達の話にも、かなり高確率で「UFOが見える」「前世や霊が見える」というのが出てくるのだ。

 

オカルト関連の人ではないが、冒険作家の高野秀行さんがトルコのワン湖にいると言われるUMA「ジャナワール」を探しに行った時の事を記した「怪獣記」という本の中にこのような一説がある。

 

 この人はランク「B」だと思った。ウソはついていない。だが、きっと”見てしまう人”なんだろうなとも感じた。

 日本でも霊やUFOを”見てしまう人”がいる。本当にそういう能力があるのかもしれない。神経が過敏であったり、思い込みが激しい性格だったり、精神が不安定なだけかもしれない。その辺はわからないが、ともかく他の人が見えないものを見てしまう人というのは確実にいて、彼はその一人だろうという強い印象を受けた。

 ”見てしまう人”の話は参考にならない。信じるとか信じないとかいう問題ではなく、確かめようがないからだ。私が霊やUFOを探索の対象としないのと同じ理由である。残念ながら私は”見てしまわない人”であり、アンチ・ロマンの現実主義者である。

 

文中にあるように、高野秀行さんはオカルトには興味を示さない人だが、ここでの要点は「霊やUFOを”見てしまう人”がいる」と、霊とUFOが一括りにされている事だ。そしてその人は等しくUMAも目撃してしまうのである。

 

そこから考えられる事とは

その法則から考える事が出来るのは、いくつかある。

オカルト否定派の立場からすれば、こう解釈できる。

 

  • あくまでオカルトはただの思い込みや、脳内で生成される幻である
  • よって、霊魂もUFOもUMAも、全て存在しない

 

そう決めてかかってしまえば、たしかに全てが丸く収まる。

ただし、それでも残る疑問点が幾つかある。

 

  • 同時に複数の人間が同じものを目撃した例もたくさんある

 

これはとりわけUFOがらみの話に多い例である。

 僕がいろんな人に「そういった話」を聞いてまわった中で耳にしたこんな話がある。

その話をしてくれたのは、僕が10年以上仲良くしている、いわゆる「親友」と言ってもいいくらい親しい友人のTだ。

Tは元来ゴリゴリの理系人間で、僕がオカルト絡みの話に触れた時も、まさに「そんなのは脳の働きの話だ」「オカルトなんて馬鹿が信じるもの」とズバッと切って捨てるタイプの人間だった。

今年の初めごろに、北海道の田舎町に住んでいた彼の祖母が亡くなった。

亡くなったのはTの母方の祖母で、昔、炭鉱町として栄えた事があったが閉山となり、今ではほとんど限界集落と言えるような山の中の田舎町でずっと暮らしていた。Tの母親も大人になるまではその田舎町で育っていた。

葬式が終わった後、Tの母親は、これまでTが聞いた事もないとんでもない話を語りだした。

「わたし(Tの母親)が子供の頃、お婆ちゃんと一緒に、夕暮れ時に山から降りて郷に向かっていた。そしたら山の向こうから巨大な円盤があらわれ、自分たちの上空を超えて逆の山向こうへ消えていった。自分はたいそうビックリしたが、その時にお婆ちゃんはとても怖い顔をして、”この事は誰にも言ってはいけない。そんな話をしたら村中から嘘つき呼ばわりされて仲間はずれにされてしまうから”と固く口止めをされた。だから、これまで誰にもこの話はした事がない」

この時Tの祖母と母親が見た円盤というのは、まるで映画インディペンデンス・デイに出てくるような巨大なもので、とても見間違えるようなものではなかったという。

Tはそれまで30年以上もの間、母親からそんな話をされた事は一度もなかったため、たいそうビックリしたと言う。

 

ここで注目すべきは、

 

  • Tの祖母と母親がふたり同時にそれを見ている
  • Tの母親にTを騙す理由がない。ましてや自分の親の葬式の後に。

 

という点。そして更に、

 

  • 当時、北海道の山奥に住んでいたTの祖母と母親は、そもそも「空飛ぶ円盤」という概念すら持っていなかった

 

というのが大きな注目ポイントだろう。

 

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉が表すように、人は怖がっていたり、ある種の期待をしていたりすると、風にゆらめく白いカーテンでも幽霊に見間違えるものだ。

だが、それは「幽霊」とはこんな姿をしている、という思い込みがあるという大前提が必要となる。UFOを知っていて、なおかつ興味のある我々が、見慣れないものが空を飛んでいるのを見たら反射的に「UFO!?」と思い込むことは充分にあり得るが、まだテレビもろくに見たことがない北海道の山奥に住むお婆ちゃんには、当然「UFOとは円盤の形をしている」などという概念はなかったのである。

 知り合ってから10年以上「オカルトなんて馬鹿が信じる事」と言い続けていたTは、それ以来オカルトに対して少し柔軟な姿勢を見せるようになった。

 

例え複数の人間が同時に見たとしても、それは集団ヒステリーのなせるわざだと断じる向きが強いが、果たしてたとえヒステリーの狂乱に巻き込まれたとしても、全員の目に同じ姿に映る可能性とはどれほどのものだろうか。それこそ「非科学的な」確率ではないだろうか。

ましてや、前述のTの母親の話を例にしても、祖母と母親の二人に、何かヒステリーを起こすような状況があったようには思えない。何か要因があったにせよ、空を覆わんばかりの巨大な円盤を二人同時に見てしまうなど、「集団ヒステリー」の一言で済ましてしまうには少しばかり無理があるように思えてならない。

 

そしてお話は続く

さて、今度はオカルト肯定派の立場からすると、「見える人」は幽霊もUFOもUMAも横並びに見てしまう、という事からどんな法則が考えられるのか。

文章が長くなり過ぎたので、続きは次の記事にしたいと思う。